2012年



ーー−5/1−ーー インドの飛行機  


 
大学を出てから12年間会社勤めをした。その会社は、ほとんどが海外の仕事だったので、私も頻繁に海外出張へ出掛けた。パスポートのビザの欄がスタンプで一杯になり、ページを追加されて分厚くなったこともあった。一回の出張で世界一周をしたこともあるが、海外出張が当たり前のその会社でも、珍しい事だったと思う。

 退職する直前の、最後の出張地はインドだった。天然ガスパイプラインのコンプレッサー・ステーションの発電設備(ガスタービン発電機)の仕事だった。場所は辺鄙な田舎である。ニューデリーから飛行機で1時間くらいだったか。目的地の空港は、一本の滑走路の脇に、小屋のような建物が建っているだけの、簡素なものだった。

 その地に向かう飛行機内での出来事。二、三十人しか乗れないような、双発のプロペラ機だった。離陸をして、水平飛行に入った頃、ふと座席の窓から眺めたら、片方のプロペラが止まっていた。それはギョッとするような光景であった。私はスチュワーデスを呼んで、その事態を伝えた。

 サリー姿のスチュワーデスは、止まっているプロペラをちらっと見て、「No problem(問題ありません)」と言った。私が重ねて、これは異常事態だから、パイロットに伝えるべきじゃないかと言うと、彼女は笑顔のまま「大丈夫です、心配要りません」と答えた。

 確かに、順調に飛行を続けていたから、問題無いと言われればそう思えなくもない。しかし、このままで無事に着陸できるのだろうか、もう一方のエンジンも止まったら墜落するのではないかなどと、不安がよぎった。私は穏やざる心境になった。ところが、周囲の乗客も慌てる様子が無い。

 結局飛行機は、簡素な飛行場にすんなりと着陸した。スチュワーデスが言ったように、何の問題も生じなかったのである。

 現場の仕事が終わり、帰路ニューデリーの事務所に立ち寄った。同僚に、この出来事を話すと、驚いた様子も無く、「しょっちゅうあることだ」と言われた。しょっちゅうあって良い事だとは思えないが、その男も経験したことがあるらしい。

 そんな故障が頻繁に起きるようだと安心して利用できない、と私が言うと、同僚は意外な意見を述べた。それはわざとじゃないかと。燃料を節約するために、安定した飛行状態になると、片方のエンジンを止めるのじゃないか言うのである。あくまでも想像であるが、そう考えるとスチュワーデスの落ち着きぶりもうなずける。

 その後、信州に来てから知り合った人に、何かの話題のついでにこの話をしたことがあった。その人は、若い頃熱心に登山をやっていて、インドやネパールにもしばしば出掛けたことがあるという。私の話を聞いて、やはり驚く様子も無く、「たぶんそんなところだろう」と言った。

 彼によると、日本人には信じられない様な事が、あちらでは普通に起きるという。飛行機の通路で、乗客が石油コンロで茶を沸かして飲む光景を見たことがあると言われたが、それにも私は驚かされた。




ーーー5/8−−− 連休の登山


 
ゴールデン・ウイーク後半の3、4日に、山登りをした。初夏の時期に、以前勤めていた会社の友人たちが我が家へ遊びにくるという行事が、ここ数年続いている。簡単な低山に登り、温泉に入り、我が家で宴会というメニューである。それが昨年は、ゴールデン・ウイークに燕岳へ登った。残雪の北アルプスに登ったのは、このメンバーでは初めてのことだった。

 その登山が楽しかったので、今年も北アルプスに登ることにした。爺ヶ岳を南尾根からアタック。私は2007年の5月に、単独でこのルートに挑戦したが、天気が悪くて敗退した。今回はぜひとも成功させたかった。3日は筑北村の四阿屋山(あずまやさん)に登って足慣らしをし、4日に爺ヶ岳に登る予定を立てた。

 ところが、予定日が近づくと、天気が心配になってきた。3日は雨、4日は雨後曇りの予報だった。雨天だったら登るつもりは無い。せっかく来て貰っても、山に登らずに、二日連続の宴会になってしまう恐れが出てきた。それだけは避けたかったが、天気は思い通りにならない。日程を一日ずらすことも提案したが、メンバーの都合で不可となった。

 友人たちの話では、来る途中の高速道では、激しい雨に降られたそうである。しかし安曇野はなんとか持ちこたえていた。朝パラパラと降った雨も、午前の早い時点で止んだ。全員が集合した正午前には、薄日が射す、予想外の天気になった。

 四阿屋山の登山は、登り1時間程度の軽いハイキングである。それでも、雨だったら寂しい思いをしただろう。無事に終えることができ、ホッと一息ついた。しかし本番は翌日である。夕方我が家に入り、宴会は早々に切り上げ、8時に就寝した。翌朝は4時に起床し、4時半に出発する予定である。

 4時前に起きて外へ出たら、小雨が降っていた。雲が低く垂れこめていて、里山も見えない状態だった。一同協議の結果、爺ヶ岳は断念することにした。しばらく様子を見て、天気がなんとかなりそうだったら、近くの低山を登ることにした。再び寝袋に入り、2時間ほど寝直した。

 そのうち雨は上がった。視界も良くなってきた。爺ヶ岳の名前が再び脳裏をよぎったが、時間が進んでいるので、ちょっと無理だと思われた。また、下界の天気で山の上は判断できない。天気予報から判断すれば、雨に降られて、途中で下山する可能性が高いだろう。そのように考え、スッパリと諦めた。

 低い山なら、多少天気が悪くても、リスクは少ない。松本平の西にある金松寺山(きんしょうじさん)から天狗岩へ至るコースを登ることにした。最高点の天狗岩は、標高1964M。往復5時間ほどの手頃なハイキングである。私は過去3回登ったことがあるので、勝手が分かっている。雨が降ったとしても、危険は無い。もし濡れて嫌になったら、引き返せば良い。

 明らかに大気の状態が不安定だった。ぐるりと見渡せば、目を向けた方向によって空の様子が全く違っている感じだった。そんな状況で登り始めた。しかし山の中では、わずかな雨に見舞われたものの、雨具を着用するほどではなかった。逆に、山頂では陽が射し、暖かかった。青空が見え、松本平の眺望も良かった。

 他に誰もいない静かな山頂で、ゆっくりと時間を過ごした。下山にかかる頃、松本市街の上空に巨大な黒雲を見た。雲から地面まで、灰色のガスがカーテンのように下がっていた。激しい雨が降っているように見えた。雲の中から雷鳴が轟いた。しかし、我がパーティーは、雨の攻撃にさらされることなく、登山口まで降り着いた。

 車で自宅へ戻る途中、中空に虹が出た。どす黒く垂れこめた雲を背景にした虹は、美しいと言うよりは、異様な感じの光景だった。

 そして空の様子は、かつて見たことが無いほど、激しかった。ちょうど北アルプスの稜線辺りが境になって、向こう側は明るく視界が開け、こちら側はどんよりとした雲に覆われていた。暗い空の下には、地面に近い所から上空に向かって、数段階の高さで雲の塊が出現し、千切れたり集まったりを繰り返しているようだった。

 その光景は、寒冷前線という気象用語を思い出させた。前線が、アルプスの上空に横たわっているように見えた。境目の辺りに、特に激しい雲の動きがあった。恐ろしいほどダイナミックな、悪魔的という言葉が当てはまるような光景だった。その一方、前線の向う側は、明るく見通せた。爺ヶ岳から白馬岳に至る山々も望見できたが、頂上稜線は白い雲の中だった。翌日のニュースで知ったのだが、その雲の中で、遭難死亡事故が起きていた。

 心配した天気は、二日間ともきわどく雨をかわし、思った以上の楽しい山登りとなった。遠方から来てくれた友人たちも喜んでくれて、ホストとしては面目が立った形になった。爺ヶ岳に登れなかったのは残念だが、無理をしていればどんなことになったか、分からない。




ーーー5/15−−− 黒部の太陽


 
13日、大町市文化会館で映画「黒部の太陽」を観た。大町市は、黒部ダムに通じる立山黒部アルペンルートの東側の玄関に当たる。この映画の舞台となった関電トンネルは、掘削工事の主たる部分が大町市側から進められた。つまり大町市は、「黒部の太陽」ゆかりの地である。その地で、一日限りの上映が企画された。

 この映画は、封切り当時は大ヒットしたものの、その後上映される機会はほとんど無かった。ビデオ化もされておらず、テレビ放映もノーカット版では行われていない。そのため、幻の名画と言われている。私は中学生の時、学校行事の一環として、ロードショーを観に行った。その時以来44年間封印されていたのだから、私より若い年代で、この映画を観たことがある人は、ほとんどいないだろう。

 実はこの3月に、短縮版がテレビ放映された。来年が黒部ダム完成50周年になるので、その布石かも知れない。そのテレビを懐かしく見た。思いの外映画のシーンを覚えていて、自分でもちょっと驚いた。その後大町市での上映が計画されていることを知った。1ケ月前の4月13日、発売開始日の朝に、大町市の書店へ出向いてチケットを購入した。

 上映当日、開場時刻の20分前に到着したら、既に長蛇の列であった。列を作るほどの混雑など、ほとんど見たことが無い信州で、この光景には驚かされた。会場に入ると、周辺部しか空席が無かった。どちらかというと、スクリーンの近くで観ることが好きな質なので、前から二番目の席に着いた。

 石原裕次郎が「この映画は、劇場の大画面で観てもらいたい」と言ったそうだが、それが理解できた。テレビで観たのとは、確実に色々な事が違っていた。

 映画館で観た映画を、後日テレビで観るという事は、普通にある。しかし逆に、テレビで観た映画を、再び劇場でで観ると言うのは、得難い経験だと思う。映画は、大きなスクリーンのサイズで観ることを前提に作られている。しかし実際には、ビデオやDVDで観られることの方が多いかも知れない。それは、制作者の意図が裏切られていることになる。テレビの画面と、巨大なスクリーンでは、同じ映画でも全く見え方が違う。そのことを改めて気付かされた。

 ひとことで言えば、迫力が違うという事なのだろうが、それだけでは言い表わせない、謎めいたものがある。

 例えば、テレビで観た時は安っぽいシーンに感じられたものが、大画面ではその印象が無い。むしろストーリーを盛り上げる効果が感じられる。テレビのサイズでは、多かれ少なかれ客観的に見てしまうからだろう。シーンによっては、安っぽく、気恥ずかしく感じるようなものもある。そのようなシーンでも、大画面で観ると、雰囲気に引き込まれ、感情が入るので、違和感が無い。逆に、わざとらしいくらいの演出でないと、インパクトに欠けるのかも知れない。映画人は、そのようなことを計算に入れて、映像を作っているのだろう。それをテレビサイズで観て、良し悪しを述べても、意味がないとも言える。

 また、大きい画面だと、俳優のキャラクターが、はっきりと伝わって来る。おかしな話だが、私はこれまで、石原裕次郎という俳優に、魅力を感じていなかった。何故あれほど人気があったのか、不思議に思うくらいだった。ところが今回大画面で3時間ほどお付き合いさせて頂いて、なるほどと感じた。ひたむきさ、人なつっこさなど、とても魅力的なキャラクターだと理解した。この発見も、大きな画面ならではのものだろう。

 辰巳柳太郎が演じる、破滅的なトンネル職人。テレビで観た時は、単なる悪役という印象だったが、大画面で観ると、そういう単純な塗り分けでは済まされない、偉大な存在だった。無軌道な行動の中にも、深い情念の凄みが感じられた。良くも悪しくも、日本の高度成長を支えてきた職人社会の、逞しさと悲しさの両面を、見事に表していた。私はこの俳優に、尊敬の念を抱いた。

 ところで、中学生の頃に観た印象と、今回観た印象との違いに、私の事情もある。隔たる44年間の間に、登山と言う行為が、私の人生の中に加わった。映画の中に頻繁に現れた北アルプスの山々。それらのほぼ全てを、私は登ってきた。関電トンネルが貫いている稜線も、辿ったことがある。黒部の谷に入ったこともある。それらの経験によって、この映画がより身近に感じられたように思う。人生が、映画の観かたを変えるのである。

 映画が終わり、会館の外に出ると、夕空の下に、この映画の舞台となった山脈が見えた。




ーーー5/22−−− 荒木寛畝という絵師


 荒木寛畝(あらき かんぽ)という名前を聞いたことがあるだろうか。江戸時代から明治にかけての画家である。明治の画壇の巨匠横山大観と並び称される大物芸術家だったが、作品は帝室御物となっているものが多く、一般に流布していないので、知名度は高くない。そのような説明を、私は母から何度となく聞いた。

 実はこの荒木寛畝なる人物は、私の祖母の母の父である。つまり私の高祖父にあたるご先祖様である。それで、小さいころからしばしば話を聞かされた覚えがある。

 画像は氏の作になる扇面の掛け軸である。母はかねがね、「これはたいそう貴重な物ですよ」と言っていた。しかし私には、どれほどの価値があるか、分からなかった。絵そのものは、良さそうに見える。だが、日本画として、格別の地位を与えられる出来映えかどうかは、素人だから分からない。

 小さいころから、「日本橋の欄干のデザインは寛畝さんが手掛けたのよ」と聞いていた。獅子が東京都のマークを抱えている、あの欄干である。それを、子供心に、とても誇りに感じていた。小さかった頃、友人たちに「日本橋の欄干は、僕の祖先が作ったんだ」などと自慢することもあったが、誰の反応も鈍かった。

 最近になってネットで調べたら、日本橋のデザインに関して、荒木寛畝の名前は一切現れなかった。全く別の人が設計をしたことになっている。その情報に触れ、私はがっかりした。そのことを、東京に住んでいる母と電話で話したら、母はしぶとかった。親戚の○○さんが、実際に荒木寛畝さんから聞いた話だとかで、その方は既に亡くなっているけれど、娘さんが話を聞いているかも知れない、などと食い下がった。そして、すぐに連絡を取って聞いてくれた。

 話によると、荒木寛畝さんの図案を使ったようだとのことだった。東京美術学校の教授をやっていたので、その後輩である設計者が、図案を見本にしたのではないかと。ただし、証拠は何もない。話が伝わっているだけである。それでも、日本橋の落成記念の式典に際し、来賓に配る記念品の扇子に絵を描いたということだから、関係があったことは想像できる。

 話は戻るが、画像の扇面。荒木寛畝氏は、幕末の名君の一人に数えられる土佐藩の山内容堂公のお抱え絵師だった。容堂公は、わずかに年下の画家を、たいそう気に入り、厚く処遇したようである。

 数年前、息子が母の所に泊った際、この掛け軸の話になったそうである。母は、孫の中で一番美術の才に優れた息子に、この作品を残したいと言った。それを受けて息子は、「売ればいくらくらいの値段でしょうか?」と聞いた。美術の才よりも、商才という感じである。

 それに対して母は、「荒木寛畝さんの作品は、ほとんどが帝室御物になっていて、一般には出回っていないし、これからも出る可能性は少ない。だから、美術コレクターにとっては希少価値がある。しかも山内容堂公のお抱え絵師であり、この扇面も実際に容堂公が使った扇子のものと思われる。山内容堂公はいまだファンが多く、その人が使った物となれば、金を惜しまず買いたいという人がいるだろう。たぶん〇〇〇〇万円といったところじゃないか」と言ったそうな。

 先日我が家に来た息子からその話を聞いた。掛け軸を取り出して、マジマジと眺めた(画像はその時の写真、クリックで拡大)。そして、荒木寛畝という画家の作品の相場がどれほどか、ネットで調べてみた。そうしたら、掛け軸が数点あったが、いずれも6千円前後の価格だった。

 身贔屓という言葉があるが、理想と現実には、ずいぶん開きがあるようだ。




ーーー5/29−−− 減量計画


 ゴールデン・ウイークに、以前勤めていた会社の仲間と山に登った。その中の一人のO氏が、途中からバテた。原因は太り過ぎと運動不足だと思われた。以前一緒に登っていたころは(と言っても20年以上前だが)、頑強な男で、重荷を担いでもビクともしない体力の持ち主だった。彼がこのように体力を落としてしまったのは、残念だった。もう一度体を鍛え直し、元気よく山に登れることを願いたい。

 私はこの6月の末に、蝶ヶ岳から常念岳を回って登山口の三股に戻る三角コースを、日帰りでやろうと目論んでいる。昨年の9月にトライしたが、蝶ヶ岳の山頂で足がつって、引き返したあのコースである。その登山に備えて、ダイエットすることを決意した。太り過ぎのO氏に自らを重ねて、連休明けに宣言をした。およそ50日間で82キロから75キロまで体重を落とすのが目標である。

 1月から、裏山登りのトレーニングを続けている。5月の上旬までに20回ほど登った。冬場はあまり頻繁に行けないが、アクセス道路のゲートが開いた4月下旬以降は、なるべく一日おきに登るようにしている。このペースでトレーニングを続ければ、三角コースの踏破は成功間違いないだろう。しかし、どうせならこの機会に、懸案のメタボ腹を解消させたいと考えた。体重を減らせば、よりラクに遂行できることは、O氏の例を見ても明らかである。

 ダイエットの方法は、食事の量を減らす、間食をしない、裏山登りの頻度を毎日にする、の三本立てである。

 これまでも、普通の生活をしながら、裏山登りを一日おきにやるだけで、77キロくらいまで体重を減らした実績がある。不思議なもので、季節が夏に向かい、気温が高くなってくると、トレーニング効果が上がり、急に体重が下がってくる。同じ運動量でも、寒い季節は体重が下がらない。今年も、例年通りのやり方で、夏にはある程度体重が下がっていると思う。しかし、そんな事では、メタボの本丸は落とせない。暑くなる前に7キロ落とす。これが今回のダイエットの主旨である。

 実は、数年前まで体重が88キロあった。それを現在の80キロ前後まで下げることが出来たのは、ひとえにビールを止めたからである。それまでは、毎日必ずビールを飲んでいた。夏場は、昼食時にも飲むことがあった。毎日最低500cc飲むのだから、一年間ではドラム缶一本ほどのビールを飲んでいたことになる。それを止めたら、次第に体重が下がり、8キロほど減った時点で落ち着いた。摂取カロリーは、確実に体重に影響を及ぼすということを、実感した。

 30歳前後の頃、ランニングに凝った時期があった。毎日5キロ弱、一ヶ月の合計で150キロほど走っていた。ランニングを始めて半年ほどすると、体重が75キロから70キロまで落ちていた。運動をすれば体重が下がるということを、この時はっきりと理解した。

 今回は、摂取カロリーを減らすということと、運動量を増やすということの二つを同時に実施するのだから、効果は二倍だろう。

 毎朝食事前に、体重を計り、記録することにした。この三週間の成果として、2キロほど下がった。実感としても、上半身が細くなったように感じる。腕時計も緩くなった。しかしメタボの本丸であるお腹の出っ張りは健在である。もっとも、ベルトの穴が一つ移動したから、少しはスリムになったようだが。

 運動量を増やすと、面白い現象が起きる。それは、食欲が落ちてくるのである。そして、食事は少しの量で満足できるようになる。太っていた時は、体を動かさなくても腹が減り、ガバガバ食べても満ち足りず、食後には甘い物に手を伸ばしたりしていた。それが今は、全く逆の状態になっている。こうなると、無理に我慢をしなくても食事の量が減らせるから、心理的にラクである。おまけに、酒も少なめの量で酔いが回る。少量で気持ち良く酔えるようになるのである。もっとも酒の場合、それで量が減るかどうかは別問題であるが。

 同じようなことを、ランニングに凝っていた時期も経験した。美味しく食べて、少しの量で満ち足りる。その時に感じ、口にした言葉を、今でも覚えている。いったいどのような理由でこうなるのか。当時考えた結論は、「健康を高めるための運動をすると、体は自然にそれを助ける状態へ移行する」であった。あるいは、ある目的で運動をすると、体はその運動をし易くなる方向に変わる、とも言えようか。ランニングを真剣にやろうとするならば、体重は敵である。従って、体重を減らすべく、食欲が落ちる、と言った具合である。

 日常的に激しい運動をしているスポーツ選手は、たくさん食べると聞いたことがある。消費したカロリーに見合った食事をしなければ、体が維持できないから、当然だろう。私が出した結論は、贅肉が付いた人間が、健康的な体重まで移行する段階での現象と言えるかもしれない。

 もっとも、マラソン選手は痩せているが、重量挙げの選手は太っている。やはり人間の体は、目的に応じて形が定まると言うことなのか。それでは、メタボの人は、本人が好むと好まざると、あるいは意識しようとしまいと、どのような目的が設定されていて、ブクブクと太った体形になるのだろうか?









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